
【熱田高輝さん】全日本モトクロス発展のために、手ごたえはあります【レジェンド・オブ・オフロード】
幼い頃よりの憧れを胸に秘めて若者は最初は一人ぼっちで辞書を片手に奮闘しながら仲間や後輩達にアメリカ修行の道を切り拓いた。本気で望んだなら、迷わず実行に移す。それこそは人生の動力源になることを身に染みて知ったからこそ今、全日本モトクロスのディレクションに賭ける。

あつた・たかてる 1975年8月29日 宮城県生まれ。1985年BMX全日本ジュニアチャンピオン。92年より全日本モトクロス国際A級、ホンダ、スズキのマシン開発に貢献。07年スーパーモタードへ転向、同年『DEP(自動車建設機械販売業)』創業。MFJ全日本モトクロス レースアドバイザーを経て現在同レースディレクター。2018年よりモトクロス・オブ・ネイションズ 日本代表チーム監督。『TEAM JAPAN MX PROJECT』理事
PHOTO&TEXT/E.Takahashi 高橋絵里
写真提供:熱田高輝
やりたいことはとにかくやってみるの精神で。
幼い頃のメインはBMXレースで、弟の孝高と一緒に父から鍛えられた。「親父に毎朝4時くらいからトレーニングさせられました。50m・100m・200m・400mのタイム計測をする親父が、今日は速いだの遅いだの言って(笑)。レースは複数台でコース1周のトップゴールを競うもので、競り合って前の方を走るのは楽しかった。勝ちたい気持ちは、多分その頃からありましたね。」
その甲斐あって10歳で全日本BMXジュニアチャンピオンを獲得。BMXからやがてモトクロスへの自然な過程は、アメリカのキッズとも似た環境だ。地元仙台のササキ・プロレーシングに入ると、現役A級ライダー佐々木博幸の元でモトクロスに励んだ。
「佐々木さんには僕が小学校高学年くらいからお世話になったので、モトクロスで速くなる方法というよりは、社会のすべてをイチから百以上まで全部教わった感じでした。当時の佐々木さんはバリバリのA級で、若いライダーの育成もして、一緒に練習してくれたり、自転車、ランニング、ウェイトなどトレーニングについても教わりました。


佐々木さんは、厳しかった。今でも覚えているのは、関東か中部の大会で僕の成績が悪かった時、仙台に帰る途中の、確か福島あたりでクルマから降ろされて、200円くらい渡されて、『ここから自転車で帰れ。真っ直ぐ行けば仙台だから。』と言われました。もちろん言われた通りにしないといけないし、辛かった。でもそういう厳しさはわりと普通だった(笑)。佐々木さんは僕が速くなるために言ってくれるんだと理解していたし、メンタルも鍛えられ、自分のためになりました。」
14歳でNA昇格、15歳でIB昇格、16歳でIA昇格して、師匠の期待に応えた。17歳のA級初年には早くも本田技研工業朝霞研究所契約ライダーとなり、第2戦九州大会で初優勝を決め、またたく間に表彰台の常連となるが、熱田本人は初優勝の記憶さえまったくないという。
「もう、意識はアメリカに飛んでいて。憧れが、すごくて。」
野望はアメリカ、スーパークロスだった。
「仙台で親父がSXコースを作ってくれて、いつもそこで練習していました。衛星放送でAMASXを見ながら、俺だってこれくらい走れるよ!って、勘違いしていた(笑)。とにかくアメリカで走りたい思いが強かったんです。」
現地のコネも何もなかったが、アメリカにゾッコンな18歳の熱田は単身行動に出る。
「最初は本当に何のツテもなくて、行けば何とかなるだろう!と一人で行きました。94年頃だったと思う。アパートを借りて運転免許を取って、車とバイクを買ってといった事も、辞書を片手に必死でやりました。生活するのに英語をしゃべらないと何もできないので頑張りました。コースがどこにあるかバイク屋さんで聞いたり、トーランスという街に日本人街があると聞いて行ってみたり。」
当時の情報収集はすべてアナログで、紙の地図や分厚い本の辞書が頼りだった。驚くべきゼロからのスタートながら、なんとか生活基盤を整え、モトクロスをする環境までこぎつけると、コースで知り合う人々からレースやエントリーの情報が入り、人脈も広がった。こうして熱田は勇躍、一人ぼっちのAMAスーパークロス参戦に挑む。

「会場の場所さえわからないけれど、地図を見ながらどうにかして行く。メカニックもいないのでバイクも全部自分でみる。コースに恐怖心がなかったのは、小さい頃から親父が作ってくれたSXコースで走っていたからでしょうか。
あの頃一番上のクラスだった250クラスに出ていました。予備予選は落ちたことがなかったけれど、メインレースまで残れたのは1回だけ、サンノゼの大会で、初めて涙が出ましたね。ジェフ・スタントンが祝福に来てくれたんです。あれは嬉しかった。スタントンとは、アメホン(アメリカン・ホンダモーター社)主催のスクールに僕が生徒で参加した時に交流ができて、彼からトレーニングや食事についても教わったんですが、アドバイスの内容があまりにもレベルが違って凄すぎて、僕にはどうしようもないくらい。そのスタントンが、僕のメインレース進出を知って声をかけに来てくれた。僕のゴーグルの中は、涙でビショビショでした。」
アメリカ生活が慣れてくると、日本から中山透や加賀真一など伸び盛りのライダー達が熱田を頼って来るようになり、賑やかな合宿となった。熱田が切り拓いたアメリカモトクロスへの道は、後輩達にも急速にチャンスを広げていった。
「AMAナショナルにも出ました。僕と孝高と芝山(知大)君の3人で、よくわからないけれどとりあえず行ってみよう!と、バンにバイク積んで、アメリカじゅうひたすら移動して、山越えの途中でバンがオーバーヒートして停まったり、毎回必死で会場を探しながら、3人でバンの中に泊りながら、レース前日だけホテルに泊まって。エントリーはFAXでできて、AMAの担当者にも親切にしてもらいました。

自分は考え方がポジティブなんです。ダメかもとは思わない。やろうと思ったことは、やってみる。とにかく行く、行って、やってみる。本気でモトクロスを速くなりたいなら、アメリカの方が集中できるし、打ち込める。良いコースも揃っていて毎週レースがあって、だからあとは、ライダーのやる気なんです。みんな、やりたいですねと言いながらやらないだけで。
そして、勝つライダーというのはただ『勝ちたい』ではなく、『勝って当たり前』と心の底から思っている。だから勝てるんです。勝つために努力をすると、やらなくちゃいけないことがおのずと見えてくるんです。」(文中敬称略)

