
【松田 強さん】モトクロスが繋いでくれた人脈は人生最高の財産です【レジェンド・オブ・オフロード】
父経営のバイクショップ『松田モータース』で初めてモトクロスに連れて行ってもらった日。幼い“野球大好き少年”は、一瞬にしてモトクロスの虜となった。あの日から--無我夢中だったレーサー時代を改めて振り返る時、しみじみ、だが自然と出た一言は、『モトクロスに出会えて本当に良かった。』
PHOTO&TEXT/E.Takahashi 高橋絵里
写真提供:松田 強
躍動感、存在感輝く南国のスズキレジェンド
80年代は、沖縄県内だけで年間24戦ものモトクロスシリーズ戦が開催され、賑わった。モトクロスに魅せられた中学・高校時代の松田強は、その渦中にいた。
「それで84年の最終戦に、国際A級ライダーがゲストで来て、僕らと一緒に走ってくれたんです。光安(鉄美)さん、大関(昌典)さん、吉原トモさん、岡部(篤史)さんなど、各メーカーのトップライダーでした。」
まさに雲の上の憧れの選手ばかり。一緒に走るのも初めてだったが、高校3年の松田は日頃の練習成果を思いきり発揮し、地元の利を生かして必死についていった記憶がある。すでにその時の松田には『スズキに入って国際A級になる』という明確な目標もあった。というのは以前、中学生の松田の素質にいち早く目を付けた人物、当時スズキ二輪販売の名倉直(後にMXチーム監督となるトライアル・モトクロス出身レジェンド)から、『将来スズキに入れてあげるから、高校だけは卒業しなさい、そして浜松へ来なさい』と熱心に誘われていたのだ。
「名倉さんにそう言われて嬉しくて、絶対国際A級になるんだ! と、レースも練習もアクセル全力全開で頑張りました。周りから、ツヨシは何を食べてそんなに元気なのかと言われるほどでした。何を食べていたかって? 何だろう? 肉とウナギはよく食べていました(笑)。高校卒業が近づくとそれはもう待ち遠しくて、毎日カレンダーばかり見ていました(笑)。」
こうして鈴木自動車株式会社に就職した松田は静岡へ。新入社員研修の半年間はケガ防止のためレース禁止だったが、やがてテスト課に配属されると、竜洋テストコースでスクーターの耐久テストや4輪オフロードバギーの開発に従事しながら、休日はすべてモトクロスのレースと練習に費やした。同期入社にモトクロスライダーの本田哲也と渡邊親弘がいて、仲の良い3人での切磋琢磨は良い刺激になった。
「テスト課に行ってからは楽しかったですよ。スクーターでもバギーでもとにかく走ってばかりで、こんないい仕事あるかな、自分にとっては仕事じゃないような仕事(笑)。モトクロスはプライベートで全日本のジュニア(現NA)から出て、87年はB級でしたが、昇格に1ポイント足りなかった。悔しかったですが、A級になるにはまだ何かが足りないんだろうなぁと思い、88年もB級で頑張って、最終戦の鈴鹿で優勝してA級昇格を決めました。」

翌89年、スズキの社員ライダーでテスト課所属のA級ルーキーは、第5戦SUGOグランプリ大会125クラス ヒート2で、並みいるファクトリーを押さえて初優勝を飾り、一躍注目を集める。
「1ヒート目はスタートで出遅れて、さらに奥のヨーロピアンで起きた多重クラッシュで僕も転んでしまい、最後のほうから追い上げて11位。感触が良かったので、2ヒート目はスタートを決める、そうすればイケルと。メカニックで先輩の佐藤さんも『ツヨシ、次は行けるかも知れんぞ!』と気分を乗せてくれて、僕もその気になって(笑)。それでオープニングラップは2番手で、その後トップに出てヨシッ! と思うんですが、後ろに岡部さんと光安さんが迫ってきて、サインボードでタイム差がどんどん詰まってくるのがわかるから、もう必死でした。それでも慌てずに、自分の走りはできていました。最後にゴール手前で光安さんに並ばれましたが、なんとかトップで行けました。」
高校3年の沖縄シリーズでファクトリー勢のスピードに圧倒されるばかりだった松田が、4メーカートップライダー全員の前を走り抜いた瞬間だった。この年はシリーズ前半の125ランキング8位、後半250ランキング7位を獲得している。
「89年は、運もあった。250のエビスサーキットでは予選でスタックして予選落ちしちゃったんですが、台風で決勝が2ヒートとも中止になったせいでポイントがそれほど離れずに済んだんです。ものすごい嵐の中、(鈴木)秀明さんが『もうこんなの中止! やめた方がいいよ!』って言ったことで中止になった、あの大会ですね(笑)。」
90年、松田はスズキファクトリー入りを果たした。監督は池田勝、チームメイトに馬場善人。翌91年は2階級特進のルーキー荻島忠雄が抜擢され、「僕が〝浜松のお父さん〟みたいになって面倒をみました。荻島は最初は遅かったけれど2ヶ月くらいするとついて来るようになって、わぁ伸びてるなぁこれはイケルぞって。だから荻島の125タイトルは本当に嬉しかった。」



モトクロス世界選手権日本GPやジャパンスーパークロスでも松田はおおいに存在感を見せつけ、沖縄県人らしい明るいキャラクターとパワーライディングでファンを魅了した。ジャパンスーパークロス神宮大会で、アメリカンに全く負けていない松田の鮮やかなアクションジャンプに、満員の観客が異例の〝アンコール〟で球場全体を揺るがせた、あの伝説の『マツダコール』を懐かしく思い返す読者もいることだろう。
「若いうちから大人達に混ざって活動するモトクロスは、人と人とが繋がり、世間を知ることができる。僕はバイク屋の息子に生まれてモトクロスと出会って、全日本の大会に出て少しは成績を残せて、日本全国どころか、フロリダのロニー・ティシュナーの家に2ヶ月行ったりなど外国にも知人が増えて、そうした人脈が一番の財産です。モトクロスに出会えて、本当に良かった。そして日本の産業技術は世界一です。メーカー企業は、レースをして海外へ自動車やバイクを売って外貨を入れて、日本を成長させてほしいです。モトクロスレースをやめちゃ、いかんよね。」(文中敬称略)
