
【小林雅也さん】選手と共にレベルアップしたい【レジェンド・オブ・オフロード】
やると決めたことは何があってもやる精神、気持ちで絶対負けない精神こそは、長年培ったチームの誇る伝統だ。マウンテンライダースで育ち、そして今はマウンテンライダース代表として若手育成とチーム発展に邁進する。己にも『日々が勉強』と真摯に取り組む姿がある。
PHOTO&TEXT/E.Takahashi 高橋絵里
写真提供:小橋雅也
心身に染みた吉村太一さんの教え
小学生の頃は野球少年だったが、近所の空き地で走るモトクロスに興味津々で、毎日のように見に行っては見知らぬライダーに無理に頼んで乗らせてもらった。親に買ってもらったRM80で初めて走ったコースがスズキオートランド生駒(現在のライダーパーク生駒)で、さらに当時のライダーパークタイチへ行くと大きな衝撃を受けた。
「自分と同年代のライダーたちがとても速く、ジャンプだってパンパン飛んでいる。負けず嫌いの私にとって、心に火が付いた瞬間でした。」

西日本エリアの「カシオタイチ杯」で初めて80ccチャンピオンになった13歳の小橋の素質を、当時マウンテンライダースの元木鉄治監督は見抜いていた。「元木さんから『一緒にやってみないか』というありがたい言葉をいただいてチーム入りしました。」
高校1年になった小橋は80ccクラスからの2階級特進を果たし、ジュニアクラス(現NAクラス)で全日本デビュー。小橋にとっては雲の上の存在のA級関西勢の馬場善人、宮内隆行などに、ためらわず質問しに行った。
「あの2連ジャンプは何速で飛ぶんですか?とか、自分から聞きに行きました。皆さんとても気さくに教えてくれました。あとはとにかく走りを見て、何とかして吸収しようとしました。高校の頃は日曜しか練習できないので、毎日練習できるライダーに勝つにはどうするかと考えて、まずは気持ちで負けないこと、そして一度に長い時間を乗りました。いつも早く日曜日が来ないかとワクワクしていました。」
91年、17歳のA級昇格1年目は濃いシーズンだった。鈴鹿で初優勝、コングランドで2勝目を挙げた。その喜びももちろん覚えてはいるが──

「勝ったレース以上に覚えているのは悔しかった思い出で、藤沢大会で調子が良く、2番手のライダーを引き離してトップを走行中、確かラスト10分くらいでエンジンが焼き付いてリタイアした、あの時の悔しさのほうが強いですね(笑)。」
「吉村太一さんは大先輩レジェンドながら気さくな人柄で、相談しやすく、話を聞いてくれる人でした。でも『決めたことをやらなかった時』は厳しかった。例えば明日練習に行く予定でいて、それがすごい雨になって、チームメイトの元木(龍幸)と『これだけ大雨だから今日の練習はもうないやろ』と勝手に決めてしまって、牛丼屋に朝定食を食べに行ったんです。そうしたら吉村さんから『お前ら、どこにおるんや。ワシはコースにおるけれど誰も来てないじゃないか』と電話が来た。慌てて行って、水浸しの川のような池のような、信じられないコースで練習しました。それでも、レースでそんな状況があるかもわからないし、強くなるためには当たり前のことですが、若かった僕らは勝手に判断してしまった。吉村さんが現役で全盛期の頃は、まだ僕は生まれていないのですが、ライダーの指導に本当に熱心な方です。」

「95年のオフに行ったアメリカトレーニングでは、僕が一流選手に教わりたいと吉村さんに相談したところ、ホンダに交渉していただいて、ジェフ・スタントンがコーチをしてくれました。アメリカの練習方法は、一つのコーナー、ジャンプ、フープスなど同じセクションばかりを完璧になるまで徹底的に練習するんです。練習やトレーニング方法、食事管理なども含めて初めて知ったことを、ならば自分でも徹底してみようと思いました。AMAスーパークロスにスポット参戦したこと、ジェレミー・マクグラスやスティーブ・ラムソンと一緒に練習したのも含めてレベルアップできたことが、ジャパンスーパークロスでチャンピオンを獲れたことに繋がったと思います。」
「マクグラスさんは僕のヒーローで、ジャパンスーパークロス千葉大会で僕がマクグラスさんとラジオで対談した時、収録の前に食事に誘われたんですが、マクグラスさんと2人だけだったんです。もう何をしゃべっていいかわからないし(笑)。確かパスタを食べたと思いますが、舞い上がってそれどころじゃなかったです(笑)。」

96年はヨーロッパのワールドスーパークロスシリーズに挑戦してキャリアを重ねた。
「WGPやAMAのトップライダーが集結して、彼らと同じ舞台で闘うわけですから、気持ちだけでも強気で行かないと重圧に負けてしまいます。この年はスペインにトレーニングにも行き、世界チャンピオンのジョン・ファンデンベルグさんのコーチングを受けました。それでもっと海外レースにチャレンジしたかったのですが、97年の怪我で車椅子ユーザーになって、そのあと吉村さんからチーム監督をしないかと言われました。最初は『できません』と言ったんです。自信がなかったし、自分がどこまでできるかというか、それどころじゃないというのが正直なところでした。でも、吉村さんの『お前がおるだけでもええんや』という言葉に救われて、気持ちが楽になりましたね。」

「私は健常者の監督とは少し違うところもありますが、チーム員のみんなが協力してくれて、練習や整備なども率先して行動してくれることに感謝しています。私自身も日々勉強で、選手と共にレベルアップしながら成長していかなければと思います。監督として、チームの輪を大切にしたい。そして私自身が大切にしているのが、強い気持ちだけは誰にも負けないように持ち続けることです。この部分は絶対に譲れません(笑)。格闘技だと言われるくらい激しいモトクロスですからね。」
(文中敬称略)


