
元ワークスライダーのレース人生とその後の挑戦|【バイク日和・76歳ライダー荘利光】
全日本選手権、鈴鹿8耐、マカオGPで活躍した元スズキワークスライダー荘利光さん。現役引退後もバイクと共に歩み続けた人生を振り返ります
国内はもとより海外のレースでも大活躍
スズキが本格的に国内ロードレースへ参戦を開始した73年、ワークスライダーとなった荘さんは、空冷2気筒のT500ベースのレーサーで全日本選手権を戦った。この年には国際格式となる以前の鈴鹿8時間耐久レースにも出場、安良岡健ペア、根本健ペアに次ぐ3位を獲得。さらにリスキーな公道レースとして知られるマカオGPへも出場し、やはり3位表彰台を獲得したのである。


74年には水冷のTR500となったマシンでおもに国内レースに出場。2位2回、3位2回という戦績だった。こうして76年シーズンまでスズキワークスライダーとして活躍したのである。
後日談だが、荘さんがスズキワークスライダーだったとき、尊敬する先輩でホンダRSC(現HRC)の隅谷守男氏に声をかけられて、ホンダ社員ライダーたちの正月合宿に参加。「スズキのSマークが入ったツナギじゃまずいと、隅谷氏が自身のツナギを貸してくれ、それを身に着けて鈴鹿を走りました」この正月合宿によって荘さんは、鈴鹿のコースを攻略することができたのだという。
77年は、オーストラリアの知人からの招聘もあって、シドニーから約200㎞内陸へ入ったバサーストでのGPに出場することになった。マシンはヤマハTZ350と250で2クラスに参戦。といってもマシンは1台で350のレースが終了したら250のエンジンに乗せ換えるというスタイル。なかなかワイルドである。レースでは350㏄クラスでポールポジションからそのまま1位でチェッカー。250㏄クラスは4位という結果だった。


77年にオーストラリアへ遠征。バサーストGP350㏄、250㏄クラスにダブルエントリーし、TZ350でポールトゥウインを達成。250㏄クラスではクラッチのトラブルを抱えながら4位に食い込んだ
バサーストGPには設立間もないモリワキエンジニアリングの森脇護氏が視察に訪れていた。森脇氏といえばオーストラリアやニュージーランドから有望なライダーを発掘し、G・クロスビー、W・ガードナー、K・マギー、P・ゴダードらを世界GPへと旅立たせたことで知られている。そんな森脇氏が荘さんに声をかけ、翌78年からモリワキ契約ライダーとしてマシン開発およびレース参戦をすることとなった。マシンはカワサキZ1をベースにしたモリワキモンスターなど。これらのマシンで鈴鹿のレースを戦った。


バサーストGPでの走りがモリワキエンジニアリングの森脇護氏の目にとまり、78年からモリワキの契約ライダーとなる。マシン開発、レース参戦と多忙な日々を送る中、鈴鹿8耐にも参戦した

80年にはホンダの契約ライダーとなった。ただしRSC契約ではなく、ホンダ本社モーターレクリエーション推進本部との契約で、ホンダ二輪普及活動の一環としてレースに参戦するという特殊なスタイルだった。マシンはNS500で全日本選手権500㏄クラスを戦い、TT-F1クラスにはRS1000で参戦した。さらに鈴鹿8時間耐久レースにもRS1000、VF1000で参戦した。そして1985年、荘さんは20年のレーシングライダー生活に終止符を打った。だがバイクとのかかわりは続き、モーターレクリエーション推進本部の営業活動の一環としてウイング店の展開がスタート。荘さんはその第1号店として東京板橋にSRTアパッチを開店。レーシングショップというより一般のバイクショップというスタイルを前面に押し出した。もちろんレースを目指すライダーもSRT荘レーシングチームとしてサポートした。ショップは現在の川口へ移転しレーシングスクールを設立。多くの国際A級ライダーが輩出した。97年頃に同地にライブハウス「クロスロード39」をオープン。現在は閉店したが、荘さん自身はこれからもツーリング三昧の生活を楽しむと目を細めた。


16歳で二輪免許を取得するとすぐにホンダCB450 を手に入れ、仲間とよくツーリングに出かけていた。当時のCB450は高性能バイクとして人気があった





毎月のようにツーリングを楽しむ荘さんの現在の愛車の1台がヤマハセロー250。友人でもあるSP忠男のマフラーに換装しているほか、ツーリングを快適にする装備で武装(?)している。林道ツーリングにはたびたび忠さんも参加する