地球を駆ける、「三好礼子」の軌跡

バイクに魅せられ、地球を舞台に走り続けてきた女性がいる。三好礼子さん—。彼女の足取りを追えば、ただの“旅” ではない、人生そのものが疾走していたことが分かる。

1957年12月15日生まれ・67歳
1976年18歳の時、スズキハスラーで日本一周ツーリングへ出発。アルバイトをしながら365日かけて全国3万キロを走った。2000年までパリダカールラリーへの参戦など二輪や四輪でのラリー活動を行う。エッセイストとしての活動以外にも、2005年に朝霧高原にてフェアリーカフェ、2015年から長野県でペレファ・カフェを営む。富士山一周トレイルラン『UTMF(現在はMt.FUJI 100に名称変更)』の元開催実行委員など活動が多岐にわたる。最近はヤマハセロー250を愛車として、バイクライフを謳歌中!

はじまりは対馬の海と山

玄界灘を臨む対馬の山道を、裸足で走っていた。家を飛び出し、何にも縛られずに走り回っていたという記憶は、断片的であっても、いまも鮮明に残っている。四姉妹の末っ子として育った私は、海と山に囲まれた自然の中で、やりたい放題に動きまわる毎日を送っていた。崖を登ったり、牛の糞にまみれて笑ったり、貯水槽に飛び込んで遊んだり。都会では想像もつかないような景色が、子ども時代の舞台だった。

幼少期の自然とのふれあい

父は航空自衛隊勤務で、家族は北海道、東京、埼玉など、引っ越しを繰り返していた。それでもどの土地でも自然とともにあり、私の興味はいつも、動物や植物、空と海へと向かっていた。イルカ、馬、犬、カエル、鳥。家中におたまじゃくしがうようよしていたこともある。魚は鯉サイズに成長し、ジュウシマツはひと部屋を占拠するほど。とことん好きなものには夢中になる性分は、当時から変わっていない。

もうひとつ夢中だったのが、描くこと。ケント紙に向かい、烏口と墨汁で漫画を描いていた。寝るのも忘れて原稿を描き続ける小学生だった。誰も知らねど、「牧場のホリディ」など、今読み返しても傑作だと思う自画自賛の〝名作〟を量産していた。漫画も動物も、そしてその後に出会うバイクも、すべては同じ線でつながっていたのかもしれない。

「人生に後悔はひとつもない」原点の思想

〝楽しい〟が原動力。もっと続けたい、もっと見たい、もっと知りたい。テニスに打ち込んだ時には、目指すはウィンブルドンと本気で思っていたほどだ。だが、夢はひとつではなかった。アフリカのサバンナに沈む夕陽を見たい。世界一周をしてみたい。思いついたときには、すでにその道を歩き出していた。

大人になった今でも思う。人生とは、自分が面白いと思った方向に進む旅だ。どこかで帳尻が合うようにできていて、失敗も回り道も、あとで見ればすべて愛おしい。夢に向かって突き進む姿勢は、子どもの頃から変わっていない。やりたいことがあれば、迷わず走る。その出発点は、まぎれもなく、あの玄界灘と、山と風のなかにあり、走り続けた先にあったものは、〝私らしさ〟だった。

ロスアンジェルス郊外の砂漠で2回ほど行われたウィルソン(ペプシ)の撮影。砂漠には全てがある事を、既に知っていた1988年頃。楽しい♪

礼子さんが表紙を飾ってくれた単車倶楽部。2020年はペレファ・カフェの前で愛車のスズキバーディー50と。2021年はSSTRに参加した礼子さん。スタート地点のぽんかふぇ前で。2023年はペレファ・カフェの店内でお客さんと一緒に表紙を飾ってくれた

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