
【芹沢勝樹】人生最大のライバルと憧れの存在、そして最高の師匠の存在を胸に【レジェンド・オブ・オフロード】
時として必然のように出会いがあり、強く影響を受けた自分自身に発見があり、夢に向かい努力した若かりし頃のすべてがやがて今に繋がっている。ライダー時代を思い起こすほどに、感謝の気持ちが生まれていった。人生のキーパーソンは必ず居るのだ。
PHOTO&TEXT:E.Takahashi 高橋絵里
写真提供:芹沢勝樹・Honda

せりざわ・まさき 1974年3月15日 埼玉県生まれ。1歳上の兄・太麻樹の影響で小学2年でモトクロスを始め、トウフクジレーシング(現T.E.SPORT)に所属、92~95年国際A級を走る。93年ジャパンスーパークロス神宮大会125クラス優勝。㈱本田技術研究所 朝霞研究所入社からHRCへ異動後はMXGPエンジニア業務を経てTeam HRC監督就任、成田亮、山本鯨の全日本タイトル獲得に貢献。趣味はMXGP業務時代に覚えたゴルフ。
ジャパンスーパークロス兄弟ワン・ツーの思い出
関東に無敵のキッズ、芹沢3兄弟──名門トウフクジレーシングで育ち、80年代キッズレースを席巻した芹沢太麻樹・勝樹・直樹の3人は、意外にも兄弟同士でのライバル意識はなかったという。
初レースは勝樹が小学2年の頃だったが、「父は、1歳上の兄には完全な英才教育だった一方で、僕には『乗りたかったら乗ればいい、レースに出たいなら出てみるか?』という感じで、僕はいつも兄のおまけみたいについて行きました。兄とはスキルの次元が違うレベルだし、4歳下の弟はクラスも違ったので兄弟内のライバル意識はなくて、僕は勝ち負けにこだわりなく、僕なりに自由に楽しくかっこよく乗りたいと、大好きなアメリカンのロン・ラシーンのスタイルを真似したりしていました。」
そんな勝樹が、初めて負ける悔しさを自覚し、ライバルの存在を意識する時がとうとうやって来た。80ccキッズで立ちはだかったその相手は、後の国際A級チャンピオン、荻島忠雄だ。「当時テレビ番組『ビックリ日本新記録』でモトクロスの企画があり、そこで初めて会った1つ年下で背もちっちゃかった忠雄に負けました。僕がレースへの勝負心とライバル心に目覚めた瞬間でした。」
それでも子供同士、2人はすぐ仲良くなり、一緒に練習し切磋琢磨して成長した。「互いの家に泊まったりしながら、僕のモトクロス人生で最高に楽しい思い出。それでNAまでは一番のライバルだった忠雄が、2階級特進で先にA級になりワークスに入って手の届かない差がついてしまった。でも心のどこかでずっと、忠雄に対するライバル心を持ち続けて頑張ってこれたから、現在があると思っています。」


勝樹がHRCの監督に就任した際、全日本会場で心から喜んでくれた荻島に、ライバルの素晴らしさを改めて実感したという。「感謝の気持ちで一杯だし、忠雄はこれからも人生最大のライバルです。ほかにもキッズ時代から戦った請川意次、中山透、熱田高輝、後藤賢一郎など才能が高く速いライダーと全日本選手権を戦えたことも、良い思い出です。」
そんな勝樹も、国際B級の頃に自信を失い、自分はどうしたらよいかと迷走した時期もあった。それを打破させてくれたのは、AMA SX観戦で見たジェレミー・マクグラスの姿だ。「それはもうカッコ良すぎて、自分もこうやって走りたい!と、一気にモチベーションが戻りました。」
マクグラスこそは人生最大の憧れの存在、と確信した勝樹の指標は、以降急速にスーパークロスへと向かう。「今だから話せる事ですが、自分の中でのプライオリティは年末のジャパンスーパークロス(JSX)で、全日本MXはJSXの出場権を得るために頑張る、という位置づけだったんです(笑)。」

そうしてJSX出場が決まると、ひたすらジャンプ練習に明け暮れた。弟と長田智邦の3人で、極寒の中をハイエースに震えながら泊まり込み、特訓した日々。成果は実り、93年JSX神宮大会125クラスで優勝、予選・決勝共に弟の直樹とワンツーフィニッシュを決めた。「両親はもちろん、幼少期に兄弟喧嘩で僕を泣かしていた兄が、号泣して喜んでくれました。現在はハンター兄弟など兄弟での活躍は多く見られますが、自分達はその先駆けをしたと勝手に嬉しく思っています。T.E.スポーツのジャンプの強さは伝統で、東福寺さんの『ジャンプを楽しく上手くなる』という取り組みです。東福寺さんがどんどんブルを入れてくれて、日が暮れてもクルマのライトで照らしながら飛んだりしました。それでJSX神宮大会ではT.E.スポーツが3年連続、92年に中山透、93年に僕、94年に弟が優勝しました。」
現役引退後はテストライダーを経てホンダ朝霞研究所入社、その後HRCに異動した勝樹は、MXGPエンジニアを経て2016年『モトクロス・オブ・ネイションズ』の日本代表監督を務めると、翌年Team HRC監督に就任。それまでのライダー・エンジニア経験のすべてを注ぎ込み、発揮する時が来た。「その前年度に弟が監督をしてチャンピオン獲得(IA1・成田亮/IA2・能塚智寛)していて、それを引き継いだので絶対に負けられない思いがありました。弟に対してのライバル心を、この時初めて持ったかも知れません。」

ライダーはIA1の成田と山本鯨、そこにTeam HRC連覇、成田の通算150勝、山本のMXGP帰りの成果等が加わり、監督としてのプレッシャーは大きかった。開幕戦の両ヒートで2人がワンツーフィニッシュを決めると、その後もチームメイト同士でタイトル争いをする状況となった。「成田も山本もトップレベルの負けず嫌いで、勝利への執念が強い。互いのライバル意識が強まって行き、現場でのバチバチ感は、それはもの凄い空気感でした。監督の僕としては、ライダーそれぞれの良さを維持しながらチーム全体が勝利に向かって力を発揮できる環境作りに、様々な視点で意識を強くしました。チーム内のライダー立ち位置、平等感、話し方、話す時間や内容など、本当に多くを意識しました。」
毎戦壮絶な闘いの中、17年に山本、18年に成田(V12達成)、19年に再び山本がIA1タイトルを決めた。「2人の個性のタイプは違いますが、目標に対しての行動に自主性がすごく高いという点では共通していて、この意識が強いことが偉大な記録に繋がったと感じています。これは時代に関係なく、レーサーとして必要な要素だと思います。
自分としては、爽やかなHRC監督ができるかな、なぁんて思ったんですけど(笑)、実際はとんでもない。でも2人をまとめ、チームをまとめる重責は、本当にやり甲斐のある仕事でした。」(文中敬称略)