
【小池田猛さん】もがき苦しみ、切腹する気持ちをタイトル獲得への起爆剤にして【レジェンド・オブ・オフロード】
時代を変える! 世界を見る! レースへの意識は、いい時も悪い時も、どんな時も一貫していた。 モトクロスで世界に尻込みした後悔の念が、エンデューロでの世界挑戦に繋がったと振り返る。 頑張ればできる、夢は叶う——そうして後進に伝えたい。 感謝の気持ちと共に、人生を楽しむために。
PHOTO&TEXT/E.Takahashi 高橋絵里 写真提供:小池田猛
【History】
1999年モトクロス・オブ・ネイションズ日本代表
2005年MFJ全日本モトクロス IA1クラスチャンピオン
2008~2010年JNCC compAAクラスチャンピオン
2010年JEC IAクラスチャンピオン
2013年 PERRY MTN 24時間チャレンジ エリートクラス1位(一員)
2014年Mid Eastヘアスクランブルシリーズ プロクラスチャンピオン
父、田渕さん、ジム、みなスパルタでした
モトクロスのプロになり、目標を世界に置く——その意識は早くから芽生えていた。
キッズ80の中学時代、ジャパンスーパークロス神宮大会の特大3連ジャンプを飛んでみせ、外国人トップライダーをも驚愕させた。
「パドックにいる僕に“3連飛んでるキッズは君か!?”と声をかけられました。現役先輩・田渕武さんの影響もあり、多くの有名ライダーたちが来てくれました。3連ジャンプは怖くなかったです。自分が時代を変える、世界を見るという意識が強かったので、“だったら飛ぶしかない”と。僕のモトクロスは、全日本北海道大会を観て“自分の息子はプロにさせる”と決めた父と、田渕さん、そして大磯ムスタング高木会長の影響が大きいです。」

父のスパルタ指導にもへこたれることなく、神奈川県厚木の河川敷で練習するうちヤマハワークスの田渕と出会い、チーム「大磯ムスタング」に加入。小池田は若かった田渕の一番弟子といっていい。
「モトクロスへの取り組み、練習、トレーニング、レース——すべてにおけるプロの厳しさを田渕さんから叩き込まれました。厳しいけれど憧れの存在でした。」

NBから国際A級250ccへ至る過程で、小池田は2階級特進(NB→IB)、移籍申請(IB→国際A級250cc)で昇格している。17歳の国際A級デビュー戦は、ジェフ・マタセビッチとロン・ティシュナーに続く日本人ベストタイムで予選を通過して注目を浴びた。
「ワークスがいて外国人ライダーがいてという、自分にとって最初の夢の舞台でした。でも開幕戦の決勝でケガをして手術、その翌年の後半ようやく復活してランキングは8位でしたが、その時ももちろん意識は世界しか見ていません。日本で成績を出してから世界にチャレンジするのが普通ですが、若い時に行きたいとヤマハに無理を言ってアメリカに行かせてもらいました。」
世界へのチャンスを掴んだ。デ・ナシオン出場で世界レベルを知る田渕の後押しもあった。97年から3年間、小池田はAMAナショナル、AMAスーパークロスに邁進する。
「一人で渡米して、ジム・ホーリーさん宅に住んでレースと練習です。ただ、ヤマハは“トレーニングしてきなさい”という感じで、全戦まわれるだけの予算はもらえなかった。毎週出たいレースがあるのに出られないのはあり得ない! と、僕はジムからお金を借りながら可能な限りレースに出ました。死ぬ気で頑張る! 当たって砕けろ! という思いでした。何もかもが狂ってるくらいに頑張りました。若くてガムシャラなだけの僕にジムは、“頑張るだけでなく、負けを言い訳せず、相手をねじ伏せる力が必要なんだ”と言いました。」

小池田が追い求めたのは、相手がアクセルをわずかに戻すまで自分は開け続ける、競り合いに絶対負けない強さ——ギリギリの状況の中で駆け引きを諦めないプロの世界だった。スーパークロスは特に決勝に残ることが難しかった。
日本から熱田孝高や成田亮がスポット参戦してくると、久しぶりの懐かしさで談笑もしたが、ジムからは「予選落ちして何を楽しそうに話しているんだ?」と叱咤された。
「予選通過のためにみんな死ぬ気で走っているんだ。タケシはいいところまでいってもその先は言い訳ばかり。ランニングしろ! ランニングで帰れ!」——ジムのスパルタが身に染みた。

「ライダーとの喧嘩や揉め事もありました。マタセビッチとは、彼が日本でタイトルを獲って帰国したグレン・ヘレンのレースで。ライアン・ヒューズとはUSオープンの決勝で隣り同士で競り合って、接触してぶつけ合って、叫び合いながら転倒して、“何すんだよ、お前ふざけるなコノヤロー!”って。レース後も険悪でしたが、そういう時はいつもジムが“待て待て!”と間に入って、“ウチのライダーに手を出すんじゃない!”と収めてくれました。ジムとアルさん(ジムの父)にはお世話になりました。」
2000年、全日本に戻った小池田はYRT入りする。使命は1979年・ヤマハ光安鉄美以来の最高峰クラスタイトル獲得。
しかしながら、小池田は期待に応えることができなかった。高濱龍一郎、熱田、成田が立ちはだかった。
「ワークスは勝って当たり前の中でタイトルが獲れず、ケガで苦しみました。3年目にはワークスから外されランキング2位でしたが、翌年もまたプライベートで焦りも出て、限界を感じました。」
それでもプライベーターながらランキング4位を獲得した小池田に、ヤマハが動いた。
“ワークスとは別に、今までにない最強チームを作ろう!”と、ヤマハトップサポートチーム「ジュビロレーシングチーム」が立ち上げられ、監督に光安鉄美が就いた。


【2012-2015_34-37歳】アメリカの舞台でエンデューロでも走りたい思いが募り家族で渡米、GNCCシリーズ参戦。「家族での戦いは楽しかった。涙怒笑があった。GNCC以外にロレッタリンや自転車XCレースなど多くの経験をしました。」
「僕もモトクロス人生最後のチャンスという気持ちで、“絶対獲る”と約束しました。開幕戦は優勝でしたが、その後はケガでダメ。本当に苦しくて、切腹の気持ちでした。でも、もう1年チャンスをいただいて、とにかく必死でした。体重管理を追い込み過ぎて、全身が痙攣して視界がぐにゃぐにゃに回る中でも走りました。」
限界を超え苦しみ抜いた2005年シーズン、高濱と増田一将との三つ巴ポイント争いを制した小池田は、念願のチャンピオンに輝いた。
「その後のエンデューロ活動も含めて今までを振り返ると、ターニングポイントになる時はいつも“自立すること”から始まっていると思う。それは親だったり、チームだったり、メーカーだったり——自分でも苦しんで成長してきたと思う。やりたいことを一生懸命やっていく中で、いろいろな人との出会いがあり、助けてくれることもある。沢山の大人と関わって経験を積むことで、それまで当たり前だと思っていたことに感謝できるようになり、人生を楽しむことができると思います。」
(文中敬称略)

