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ヤマハ発動機という会社には、「細部にこだわる」という企業風土がある
それはいったいなぜなのか? その源流はいったいどこにあるのか?
辿り着いたのは1台のバイク──ヤマハ初号機であるYA-1だった

連載記事リスト
VOLl.1 細部へのこだわりは、創業当初から
VOLl.2 乗って語って作り込む「乗り味」
VOLl.3 目指すは「制御を感じさせない制御」

vol.1

細部へのこだわりは、創業当初から

公私混同か、先見の明か。ギリギリの線で事業推進

好きなことを、仕事にする。好きなモノを、造る。これはとても幸福なことだ。好きだから、ハンパなことはしたくない。好きだから、徹底的にやる。
造る人も、造られた製品も、その製品も使う人も。すべてが幸福な循環の中にある。
YA-1というバイクがある。1955年に製造されたこのバイクは、ヤマハ発動機の第1号車だ。マルーンとアイボリーのツートンカラー。七宝焼きのタンクマーク。

黒一辺倒の当時のバイクの中で、YA-1はハンパなくオシャレだった。そして価格もハンパなかった。
125㏄単気筒のバイクが、大卒男子の平均初任給が1万円少々という時代に、13万8000円もしたのである。
今の価値に置き換えると、単純計算で270万円以上。途方もなく高額だったが、その価値が認められ、2年で約1万1000台を生産・販売する人気ぶりだった。

そして、主要なレースに参戦して好成績を収めたYA-1は、後発メーカーだったヤマハの存在を世に知らしめることにもなった。デザインにも、パフォーマンスにも、ハンパなくこだわり抜いたバイクだったのである。そしてそれは、当時の社長だった川上源一さんがモノ造りに徹底してこだわり抜いた成果だった。

ヤマハを語るうえでのキーパーソンがこの2人

技術の礎を築いた始祖

日本楽器製造・初代社長
山葉寅楠(とらくす)さん

機械いじりを得意とした山葉さんは、1888年3月、オルガン製造が主業務の山葉風琴製造所を設立。高品質な楽器造りで業績を伸ばし、1897年には日本楽器製造株式会社を設立した

斬新なアイデアと実行力を発揮

日本楽器製造・第4代社長
ヤマハ発動機・初代社長
川上源一さん

1912~2002年。1950年、病に倒れた父・嘉市さんの跡を継ぎ日本楽器4代目社長に就任。1955年にはヤマハ発動機を設立し初代社長に就任。

川上さんが、幹部社員に「バイクのエンジンを試作するぞ」と極秘指令を出したのは、1953年のこと。「これからの時代、楽器だけではやっていけなくなる」という経営判断だった。

……ちょっと待った。楽器?

そう、ヤマハ発動機は1955年のYA-1製造を境にして、日本楽器製造株式会社(現在のヤマハ株式会社)から分離して誕生した会社なのである。
つまり川上さんがハッパをかけた1953年には、まだヤマハ発動機は存在していなかった。日本楽器製造の中のオートバイ部門、という位置づけだったのだ。

戦後復興のまっただ中、小規模とはいえ多数の二輪メーカーが群雄割拠しており、社内からは「本当にやっていけるのか?」という戸惑いの声も上がったという。
それでも川上さんが押し切ったのは、自身がヨーロッパを回り、「これからは趣味の時代だ」と確信したからだと言われている。

終戦からわずか10年。「趣味を楽しむ」というリッチな生活ぶりを送っていたヨーロッパスタイルを目の当たりにした川上さんは、「この豊かさを日本にも伝えたい」と考えたのだ。
もっと言えば、川上さん自身がバイク好きだったのだ。YA-1の開発にあたっては、社長自らがエンジンを組み立て、走行テストにまで参加したほどなのである。

日本楽器のさらに前身は、山葉寅楠さんが創業した合資会社山葉風琴製造所。当初はオルガンの修理を請け負っていたが、それに飽き足らなくなって日本初の本格的オルガン製造を手がけ、しまいは会社を立ち上げてしまったのだ。その信条は、「品質には絶対の責任を負う」だった。

川上さんは、日本楽器4代目社長としてその覚悟を受け継いだ。

さらに彼ならではの「バイク好き」という情熱が加わったことで、YA-1が生まれ、ヤマハ発動機が生まれたのだった。

1887年

日本楽器製造本社工場(1898年)当時

それはオルガン作りから始まった
1887年7月に浜松尋常小学校の米国製オルガン修理を請け負った山葉寅楠は、9月にはオルガンを自作。改良を重ねて高品質化し、1897年に日本楽器製造設立

1898年

軍用機のプロペラ作りがバイク開発のルーツに!?
1887年7月に浜松尋常小学校の米国製オルガン修理を請け負った山葉寅楠は、9月にはオルガンを自作。
改良を重ねて高品質化し、1897年に日本楽器製造設立

1950年

川上源一さんが伝説の“90日間海外視察へ”
1950年に日本楽器社長に就任した川上源一さんは、その3年後、約3カ月の欧米視察旅行へ。ハワイ、アメリカ本土、ヨーロッパ、中近東、東南アジアの「90日間世界一周の旅」で、趣味に興じる先進国の生活に感化され、日本にも豊かさを根付かせようとした。

1959年

D-1

海外の技術を取り入れた

初代「エレクトーン」の完成
1959年には日本初の電子オルガン「エレクトーン」を開発した。音質にこだわり、当時非常に高価だったトランジスタを採用した。上下鍵盤とペダル鍵盤による新しい演奏表現の世界を切り開いたエレクトーンは、翌年から一般向けモデルも発表され、日本の家庭に普及していった

好きだからこそ徹底的に作り込む
その姿勢は今も受け継がれている

日本楽器製造社長とヤマハ発動機の初代社長を兼任していた川上さんは、経営判断はもちろんだが、「好き」も原動力としながらヤマハ発動機の事業を推進した。

アメリカに視察旅行に出向いた川上さんは、水上レジャーが盛んな様子にすっかり感化され、「日本にもこういう時代が来る!」と、個人的にセーリングクルーザーを手に入れ、浜名湖で遊んだ。

しかし、アメリカ製の船外機が故障することに業を煮やし、「だったら自分たちで造ってしまえ」と船外機の製造を開始。1958年には試作機を完成させた。

また、学生時代に弓道を嗜んでいた川上さんが、やはり1958年、海外でFRP製のアーチェリーを見かけ、「これからは強化樹脂の時代だ!」と、FRPの開発に力を注ぐようになった。

それがFRP製の船体開発につながり、当然のように船外機との合わせワザで、モーターボート全体を造ることになった。

市販FRPモーターボート第1号を発売したのは、アーチェリーに着目した2年後の1960年。やることなすこと早いのは、やはり好きなモノを造っていたからだろう。川上さんは社長でありながら開発現場に足繁く通い、あれこれ口を出したという本気ぶりだった。

そして、1967年にデビューした歴史的名車、トヨタ2000GTにはヤマハが手がけたエンジンが搭載されている。

これにはいろいろな経緯があるが、発端を辿れば川上さんの「クルマ趣味」に突き当たる。外車を多数乗り回した川上さんが、「よし、クルマのエンジンを造るぞ」とまたしてもハッパをかけたのだった。

ヤマハ広報の岩崎さんは、「川上源一が趣味性を重んじたことは間違いない。そしてその姿勢は、今も当社の社風なんです」と言う。「ひとつの製品の関係者それぞれが細部にまで徹底的にこだわるあたりは、まさにその姿勢の表れですね。趣味的要素において、細部は非常に大事ですから」「神は細部に宿る」という言葉があるが、ヤマハには創業当初からそのDNAがあったことになる。

……というよりむしろ、「好き」を原動力として細部を重視する会社として、ヤマハ発動機は生まれたのである。

バイク、船、クルマ。自分の好きなモノをことごとく事業化していった川上さん。公私混同ギリギリを行くスレスレの話ではあるが、私たちは今、ヤマハ発動機の製品というかたちで、その恩恵を存分に受けているのも確かだ。

「当社のブランドスローガンは『Revs your Heart』。エンジンの回転を上げるように心躍る瞬間、最高の経験をヤマハと出会うすべての人へ届けたい、という願いが込められています」と岩崎さん。
「社員がものすごく真剣に考えてるのは、結局『楽しいこと』なんですよ。関係者が集まり、熱い眼差しで遊び道具について議論してる姿を見ると、『ああ、ウチっぽいな』と思います」と笑う。

好きだから、ハンパなことはしたくない。好きだから、徹底的にやる。その熱意が、細部まで丹念に作り込まれ、好きな人が思わず唸るような仕上がりを生むのだ。
第1号車のYA-1のように。

お話を伺った方

みんなが集まって遊び道具について
熱く議論してる姿がすごくウチっぽい(笑)

ヤマハ発動機・広報
岩崎慎さん

商品企画やデザイン室勤務などを経て、広報を担当。
東京・丸ノ内のオフィスを拠点に、ヤマハ発動機本社のある静岡県磐田市を始め忙しく駆け巡りつつ広報業務に従事。

Mortorcycle

実用性重視のバイクが居並ぶ時代に
“遊び”を追求したモデルを投入!

YA-1

1955年に発売されたヤマハ第1号機。2スト125㏄単気筒エンジンを搭載。
マルーンのカラーリングから「赤トンボ」の愛称で親しまれた。

浜松~東京間テストツーリング
ヤマハ3号機となるYD-1の開発においても、川上社長自ら試作車を運転。完成1号車では浜松から東京までツーリングした。

富士登山オートレース
「技術力を示すにはレースだ」。富士登山オートレースで初参戦・初優勝を果たしたのは、YA-1発売から5ヶ月後だった。

変わらないその姿勢
5.6psの125cc 単気筒エンジンから始まったヤマハ。今やスポーツモデルでは1000cc 4気筒、200psが当たり前という時代だが、趣味性を重んじる姿勢は不変。

これぞヤマハ流の発想力!
ロボットが運転する“自動運転”
「他にないものを作れ」と檄を飛ばしたという川上源一さん。2015年秋の東京モーターショーで発表した自律ライディングロボット「MOTOBOT」もその象徴的存在だ。

Automobile

川上社長のクルマ好きが高じた!?
高い木工技術で内装まで手掛ける

TOYOTA 2000GT

名車「2000GT」はトヨタと共同開発し、ヤマハが生産したエンジンを搭載。自動車用エンジンを作りたかった川上さんの思いを受け、ヤマハがトヨタにアプローチしたことが契機に。

2010~2012年にかけて限定生産されたスーパーカー「レクサス・LFA」のV型10気筒エンジンもレクサスと共同開発し、ヤマハが生産したものだ。

2013年東京モーターショーでヤマハが発表した四輪コンセプトカー。運転する喜びをコンパクトな車体に凝縮。川上源一のクルマへの思いは、今も脈々と続く。

Marine

浜名湖でのボート遊びを経て船舶生産!
「自分が楽しめるものを広めたい」が原点

TOYOTA 2000GT

海外で水上レジャーの楽しさに触れた川上さんは、自らボートを入手し浜名湖に遊んだ。外国製船外機の性能に不満を抱くと「じゃあ作るか!」と開発を開始。アーチェリーをヒントに手がけていたFRP技術と併せ、船まるごとの生産に至る。

ヤマハとヤマハ発動機で“音叉マーク”が異なります

両社とも出自は日本楽器製造で同じ「ヤマハ」を名乗りながら、ロゴには微妙な違いが。分かりやすいところでは、「M」の中央部が接地してるのがヤマハ発、していないのがヤマハ。音叉が円内に収まっていないのがヤマ発だ。
ロゴ提供:ヤマハ発動機、ヤマハ

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